パート主婦の子育て・投資日記

自分と家族の明るい未来のため専業主婦からパート主婦へ。その後海外投資を開始。夫・高校生の子どもとの3人家族。日々の出来事など思うままに書いています^^

療育日記⑤

療育施設に通園している間、

子供自身も成長させていただきましたが、

私自身も同様だったと思います。

 

親を対象とした勉強会には何度も出席し、

今後の事、直近では、就学時にまず壁がありそうなことが予想され、

ここを無事乗り超えることを目標に。

思春期、大人になるまで、

何度も壁がありそうなこと、息の長い子育てになること。

ゴールが見えない長期戦になることも、

改めて覚悟もできました。

 

また、母親同士、いろんなことをお話する機会を設けて下さり、

これは本当に貴重な経験で、私にとってかけがえのない大切な時間でした。

 

通園されているお子さんは、本当に様々で、

絶対に普通に生活していたら、知らないような分からなかったことを

言葉に言い表せないほど、たくさんのことを教わりましたし、

苦しんでいるのは、自分だけじゃない、ことも救いになりました。

 

 

子供への声のかけ方や、育児そのものに対する考え方をトレーニングしたり、

毎日がむしゃらに、療育中心に過ごしていました。

 

地元の友達や、何気ない時に、

目に入ったり耳に入る同じ世代のお子さんや、お母さんたちとは

全くかけ離れた生活。

 

それでも、自分で選んだ道。

 

主人も単身赴任ですでに離れていて、

母子避難している人がとても多い中、

震災直後の福島で母子療育をしていた私のことを、

なぜ田中さんのところは、地元ではないのに、母子で福島にいるの?とか、

子供の事とか、噂や憶測で色々言われることも、時々ありました。。

 

落ち込んだ時、辛い時、

すでに見つけていた、

お子さんの為に母子留学をしているめうみさんのblogを読み、

私もとにかく前に向かって進もう!!

と、何度も勇気づけられたこと、よく覚えています。

 

療育日記④

暗い内容ばかりだと、書いていると沈んだ気分になるので

療育期間に、私が積極的に行ったことをいくつか書いておきます(^^♪

 

まず、手先が器用というか、何か作ったりすることが好きだったので、
先生の勧めもあり、いくつか探した結果、よい工作教室と巡り合うことができ、
そこに通いだしてからは、感性が豊かになっていきました。

 

作った作品が、賞を頂いたこともあり、

とても本人の自信につながったと思います。

 

また、せっかくの東北暮らし。

原発事故の影響の保養も、子供の視野を広げることも兼ねてですが、

いくつかのボランティアの団体が主催していたイベントに参加してみたり、

近隣の県にアウトドアに出かけたり、

親子で参加できるデイキャンプのようなものに参加したりしました。

 

※事前にタイムスケジュールを見せて説明し、時にはネットも使って、

ここにいくんだよ、と伝えることは不可欠でした。

これをしないと、パニックになったり、固まって動けなくなったり。

また予定通りに進まないこともあることを、

遊びの経験から学べたよい機会だったと思っています。

 

 

そして、運動。

チームプレイより、個人でできるものの方が向いていたため、

いくつか候補を挙げ、実際に体験等連れていきました。

 

プールは残念ながら匂いが全くダメで、

顔に水がかかるのもNGだったため、あえなく却下。。

 

ダンスや体操は、体を動かすことは好きなものの、

自分の思うように自由にできないことが合わなかったらしく、

こちらも断念。。

ラソン陸上競技もうちの子にはイマイチで。。

ただボルダリングは楽しかったみたいで、時々連れてってほしいと言われ、

当時は何度か行きましたが、現在は続いていません。

 

今でも続いているのはスキー。

普通に滑るレベルですが。。私が結婚前までスノーボードをやっていた為、それを復活させ、子供はスキーの個人レッスンに何度か通わせました。

 

※スキーを選んだのは、大きくなってから学校で行く機会があるかなと。。

 

グループレッスンでは、うちの子の特性上、絶対無理だったので、

個人レッスンを行っていたスキー場を探し、

片道1時間以上かけて行っていました。

割とセンスがあったのか?先生にも褒めていただいたり、

本人も楽しそうで、数回で滑れるようになり、

その後は毎年・毎週末(笑)2人で滑りに行っていました。

 

 

今はスキー場が遠くなり、年1回ほどしか行きませんが、

それでもいい趣味が1つ増えたというか、

毎年行きたいと自分から言ってくれるので、

あの数年間、時間とお金と体力をつぎ込んでおいて(笑)

良かったなぁと心底思います。

 

療育日記③

出産の前後も、産後しばらく経った後も、

主人とは仕事の為、離れて生活していた私たち。

 

3回目の別生活。

これまでと違うのは、仕事の為ではなく、子供の療育の為。

 

震災直後の福島で。

 

考えれば考えるほど、不安で不安で仕方ありませんでしたが、

とにかく目の前の事をやるしかありませんでした。

 

毎週、先生との3者相談。

その時子供は好きなことで遊びつつ、

興味関心が少しでも広がるように、

先生が上手に引っ張ってくださったり、

私は困っていることを相談したり、

気になっていることを伝えたりしていました。

 

1年目は、本当に少しの環境の変化で、まだまだパニックになっていました。

 

違うクラスのお友達が入ってこようとすると、

 

『違う!!』

 

と言って、追い出そうとしたり、

 

子供が通園中、雪に備えてスタッドレスタイヤに替えて迎えに行ったら、

 

タイヤとホイールが違う、と大泣き&パニックに。。

(そこ気になる?と、私は唖然とした記憶があります💦)

 

中々車に乗れず、なんてこともありました(+_+)

 

また、上手に言葉で説明できなくてもどかしい時は、

物に当たったり、蹴ったり、暴れたりと、

外ではしないことも、家ではひどい時期もありました。

 

嫌な記憶が急によみがえり、泣き叫ぶ、ということも度々あり、

そうゆう時は、必ず夜泣きもひどくなっていました。

 

この頃受けた発達検査では、

初回と同じで、

圧倒的に社会的スキル・コミュニケーション能力が足りないこと、

少しでも底上げするには、細かいことをとにかく伝えていく、

分かる・分からないは別として、社会ではこうだと、

最低限必要なこと(挨拶や、ルール、マナー)を、

根気よく本人が分かりやすい方法で伝えていく

(うちの子は、目で見て分かるタイプでしたので、本や映像もよく利用しました。)

同時に、得意なことをどんどん伸ばし、

自分に自信をつけさせてあげること。

 

 

 

このことは、大きくなった今でも、とても大切にしていることで、

同時に難しさを感じることでもあります。

 

挨拶や立ち居振る舞いなんて、

大きくなれば、いずれ自然に分かるだろうというのは、

うちの子のようなタイプには当てはまらないことです。

 

真似や自然に覚えれるのなら、療育は必要ない

 

と、聞いたこともあります。

 

そして、笑顔の大切さをとにかく伝える!

 

笑顔は世界共通!

 

【お礼を伝えるときは、相手の目を見て、歯を見せて笑顔でね!】

 

実際に鏡を置いて、今でも親子で時々確認しています( *´艸`)

療育日記②

【都内に転勤が決まった】

 

こう聞かされた時、正直複雑でした。

 

・都内のほうが、一般的には色々と療育環境が整っているかも。

  ↓↓

あっても、また、心配しすぎとか、一般幼稚園に行ってください、と

門前払いじゃないかな。。

 

・生活するのも、便利そう。外で自由で遊べるだろうし。

  ↓↓

また環境変わったら、癇癪や、パニック、夜泣きが酷くなるのでは。。

 

 

 

施設の先生方、かかりつけ医の先生方の意見も伺いつつ、

居住予定地近辺の施設に問い合わせをしたり、実際にいくつか見学に行きました。

結果、主人は都内に単身赴任、療育の為に母子で福島に残ることを選びました。

 

主人とは、ものすごくぶつかりました💦

診断のことも受け入れてない状態&身内もいない震災後の福島に、

母子で残るなんて、ありえないと。

(当時、母子避難&ご主人が残っているケースがほとんどでした。)

将来、特に子供の健康に何か問題が出たら、どう責任を取るんだとか。

もっともな意見ですし、私もその点を一番心配していました。

 

軽く考えているわけじゃない、

たった1人の自分の子供。

心配していないわけじゃない。

 

けれども、せめて小学校入学までは、

本人が、自分の人生を生きていけるスキルを療育で身につけることができるなら、

確率が高い方を選ぶ。

 

主人にびっしり書いた手紙4枚を渡して、理解してもらい、

私達は療育の為に別々に暮らし始めました。

 

行けるときは毎週末、私と子供が主人宅に通いました。

別れ際、子供は何度か泣くこともありましたが、

 

自分の家→福島

 

という思いが、とても強く、主人が普段から仕事で不在がちだったこともあり、

平日、お父さんがいない寂しさで不安定になることはありませんでしたが、

主人宅に宿泊するということが、慣れるまで大変で。。

(私の家・お父さんの家 週末は行ったり来たりしますと、絵を描いて説明し、

徐々に理解してくれました。)

 

多くのお子さんとは、やはり違うな、

と感じたことでもありました。

 

普段は療育中心。

先生方にいただいたアドバイスを家庭でも積極的に取り入れたり、

言葉かけ1つでも変わることを実感していました。

子供も1度も行きたくないと言わず、成長を感じていた一方で、

私の体は色々と限界がきていて、

産後からの継続的な睡眠不足とストレス、震災、主人との離れた生活。

疲れや冷えからくるぎっくり腰を1.2か月おきに発症したり、

体の左半分がしびれたり、

顔に帯状疱疹が繰り返しできたり、散々でした。

 

毎回、お医者さんに、

【お母さん、疲れているみたいですから、よく休んでくださいね。】

と言われ、

 

私は、

【子供が特性がある子で、こだわりや癇癪がひどいんです。

 夜泣きで2.3時間おきに泣きますし。頼れる身内もいません。

 サポートセンターなんかに預けたら、その日の夜泣きがもっとひどくなります。

 どうしたら休めますか?】

 

といつも答えていました💦

 

明確な答えは当然頂けず(笑)

心身ともにしんどくて、自分の人生の選択、間違ったかも、と日々悶々。

けれども、そう思ったって、何も変わらない。

寝れないなら、寝なくても丈夫な体と気持ち(精神力)をつける!!

 

私が前向きにいれば、きっと離れている主人にも、子供にも、

絶対いい影響を与えられる!!

 

色んなことが、私のことを少しずつ少しずつ、

強くしてくれた気がします。

療育日記①

4月に入り、まだ震災の影響で混乱していましたが、

予定より数日遅れで入園することができました。

 

一緒に過ごすお友達、ご両親、先生やスタッフの方々。

とても良い方ばかりで、皆さんにお会いしていなかったら、

私たち家族はどうなっていたのだろうと。。

本当に本当にお世話になりました。

 

肝心の子供は、初日はやはり緊張していましたが、

興味のあることをとことんやらせてくれたり、

小人数で、きめ細かく先生が関わってくださる方針だった為、

特に初めの頃は、数時間ひたすらはさみで紙を切るのがお気に入りでした^^

 

すごく子供も満足そうで。

色々やらせることを決してせず、

本人がもういいと満足するまでやらせる。

これは、本当に盲点でした。

 

親としては、いつも同じことしかしないのは、

視野が狭くなりがちになるため、

もっと色々見せたり、やらせたい、と考えていましたが、

うちの子には全くの逆効果のようでした。

 

慣れてきたら、先生方が上手に他のことを提案してくださり、

例えば、ボタンをかける練習をしてきたり、

石鹸をけずってきたり、(香りが良いのもあってお気に入りだったようです。)

折り紙も。

クラスで年齢が一番下だったのもあり、

クラスの子は勿論、とにかく皆さんに目をかけていただきました。

 

震災の影響で、施設でも外遊びは全くできない状態。

室内の遊び場があるところに、平日休日問わず遠くても連れて行ったり、

偏食&通園後も夜泣きは治まらず、相変わらずの睡眠不足でしたが、

情報収集と、健康管理に細心の注意を払い続ける日々。

ここで療育を受けると決めたからには、

前だけを向いて毎日過ごしていました。

 

そんな手探りながらも、子供は充実した様子だった数か月後のある日、

主人から突然、転勤が決まったことを伝えられました。

 

入園前に起こった震災

待ちに待った入園が近づき、

何とか予約を取って数回ですが、外来相談にも行けていたので

今まで感じていた孤独感、誰にも分かってもらえない感は少し和らいでいました。

でも、寝不足と、イライラや疲れからくるストレスから

手をあげてしまいそうになる自分を抑えつつ、

その日を心待ちにしていましたが,

 

311の震災発生。

 

当時、福島県に住んでいました。

転勤で1年前に引っ越してきて、新しい生活にもやっと慣れ始めた頃です。

 

共感は全く頂けないことは十分に分かっていますが、

2歳の子供の健康を考えれば、当時、避難するべきだったと思います。

 

だけど、少しの環境の変化でパニックになる子供。

やっと1年かけて今の家に慣れてきて、

理解してくれる方にも出会え、来月から療育も受けられる。

どうして、このタイミング。

自分自身、試されているのかな、と。

 

家族、地元の友人達はすぐ帰ってくるようにと、

心配して何度も何度も何度も声をかけてくれました。

 

出来るだけの情報を集め、

これまで意識なんてしたことがなかった

呼吸をするだけで、ただ家の中にいるだけで、

将来病気になるかもしれない。死ぬかもしれない。

目に見えない、得体の知れないものへの恐怖。

私よりもまだ2歳のこの子のほうが、影響が出やすいことは分かっている。

 

けれども、早いうちに療育を受ければ、

成長した時、適応力がつくことは、確実。

ひどい夜泣きも、今思えば、私に知らせてくれる為だったのでは?

 

悩みに悩んで、療育を優先、福島で生活していくことを選びました。

 

 余震は続き、ライフラインは幸い早めに回復しましたが、

その後の影響はご存知の通り。

出来るだけ線量の低い地域へ出かけたり、

お水や食べ物、外出、全てに気を配り、窓を開けることもできない生活。

それでも自分で選んだこと。ここでしばらく生きていくと決めたからには、

出来ることをやるしかありませんでした。

 

主人も仕事でほとんど会えず、

連絡も取ることがままならない状態でしたが、

これまでぶつかることも多かった私たち、

お互いの存在に感謝し、出来る限り寄り添い、大切にしていかないと、

と震災から学べたこともたくさんありました。

 

療育園に入園へ

診断がついてから、

 

trip200.hatenablog.com

 

数年間の間に受けた子供の療育や様子について、

少し記録していこうと思います。

 

この頃、

 

◆周囲に反対されながらした結婚、

◆結婚前から分かってはいたけど、

 ストレスや苦手な事が原因で起こる、主人の度重なる心身の不調、

結婚は、やはり間違いだったのかと日々後悔していた時期、

◆子供の事、

 

だいぶドロドロとした気持ちで、この頃を過ごしていたので、
正直いい思い出が少なく、
産後から引き続き、不安定でひどい時期だったとも思います。

 

ただ、結婚も出産、全て自分で決めた選択。

どうしたら今より良くなるか、とことん向き合わざるを得ませんでした。

 

 

不快な方はスルーしていただければと思いますし、

今苦しんでいる方に対しては、

私が書くことで、少しでも何か助けになることができたら嬉しいです。

 

・・・

 

診断がついて、すぐに保健師さんに連絡、

(私が手をあげてしまったり、あげることに罪悪感を持たなくなりそうになったり、

 どうしようもないとき、時々泣いて電話をし、

 すぐ家にお越しくださった、大変お世話になった方でした。)

 

そして、近くの療育施設や相談窓口を紹介していただきました。

 

ただ、ここでも大問題となる壁が。。

 

◆見た目普通

 

◆身体的な発達は問題なし

 

◆興味のある事に対して知識高め

 

の為に、診断がついているにも関わらず

 

単なる人見知り&成長と共に治るのでは?

 

 と、療育施設で、日々色んな子供たちと接している

プロの方たちにも言われました。。

 

非常に落ち込みましたが、

ここが最後だと、諦めながらも訪れた先に、希望の光が。

(この展開には私も驚きましたw)

 

私の命の恩人とも言える先生との出会いがあり、

 

30分ほど話をしたあと、すぐさま

 

『来年から通園してみる?それまで、困った時は相談においで。』

 

『今まで、本当に大変だったね。』

 

と。

この時も物凄く泣きました。やっとこの子の為になる療育が受けられる!と。

そして、色々手続きも経て、無事春から通園できるようになりました。

 

入園時にはまだ2歳で、

まだまだ夜泣きが酷く、毎日2.3時間毎に起きていたし、


(自分の意志で寝起きする2時間と起こされる2時間は、全く別物でした😢)

 

人見知りはひどく、初めての場所に行くと、

固まって動けなくなったり、

普段行くお店で、お気に入りのものが売ってなかったり、

商品の入れ替えや、売り場が変更していると、

パニックになって泣くこともありました。

 

こだわりもとても強く、市販のレトルトやお惣菜、外食も全くダメな上に偏食、

(卵かけご飯しか口にしない時期が、半月ほど続くこともありました。)

温湿度や天候に対して、適切な服装が着れない、

日中出かけたり、刺激を受けると、

またその日の夜泣きが更に酷くなる状態でした。

 

 

仕事もしていないのに、なんで年少前に、しかも施設に通園させるの?』

 

『診断なんか、先生が勝手につけるだけ』

 

と、主人はまだ受け入れることができない様子でした。

 

夫婦仲はお世辞にも良いと言えず、

私は精神的にも体力的にも限界で、八つ当たりは日常茶飯事、

全てが嫌になって家を飛び出したことも。。

 

いつも不在がちな主人の意見より、

施設の雰囲気、療育方針、先生を信じて、

私は半ば強引に入園を決めました。